あらゆる企画を「メディア思考」で。トミタプロデュースの富田剛史です。

僕が暮らす墨田区では、現在2つの地域芸術祭「すみだ五彩の芸術祭」「すみだ向島Expo7」が行われています。久しぶりのトミタブログは、長年まちと文化とメディアとの関係の中で仕事をしてきた私が地域芸術祭に感じたことを綴ります。

「町」と「街」と「まち」とは

まず、まちとは何か。日本語では、「街」と「町」の2つの漢字と「まち」と書くケースがあります。たまに「マチ」もあるけど、例外的。

その違いは漢字に現れています。
街とは行=道を表し、街道の店や宿や市が賑やかになったところです。一方の町とは田と丁で、人が暮らし田を耕す共同体。「まち」はその曖昧表現。

江戸時代ほど明らかでは無いにせよ、現代でも「街」と「町」とがありますね。とはいえ、「街」にも店だけではなく、そこで育ち・暮らす人もいるわけで、街と町はきっぱり分かれるわけではありません。

CityとTownも同様でしょうが、英語には便利なひらがなはなく議論の際にはどっちのことかをハッキリさせて論を進めねばならない。ここからもう日本人の「まちづくり議論」は曖昧になるのですが…。

「町」には「流動性」のグランドデザインが必要ではないか

さて、ようやく本題、「芸術祭とまち」です。

街と町との大きな違いは「流動性」。一日に、一年に、10年に、何%の人が入れ替わるか。

大きな会社や商業施設、巨大大学などがあり、小商いの店もひしめく「街」では、一日に何度も人が入れ替わり、その人の流れに応じて店も変わり、資本が投下され、年単位、10年単位では、どんどん街の構成員は変化していきます。

一方で、流動性が低い「町」の構成員が変わるのは、世代交代または流入・流出です。

少し前の「消滅可能性自治体」議論ではなく、単純に考えて「生誕/死亡」「流入/流出」しか「町」の構成員が変わることは無いということ。それをどんな比率と時間で変えていくのが地域にとっていいかを考えることこそ、町のグランドデザインではないでしょうか。町の行政や地域政治家の皆さんに期待したいことです。

地方都市はほとんどすべてが「町」ですし、東京23区の中でも墨田、江東、台東、足立など下町エリアは、やはり街というより「町」です。

おい、「芸術祭」はどうした? いえ、忘れてないので、まだ慌てずに・・・

地域芸術祭は、みらいの流入増の「理由」を見つける機会

そしてこの高齢化社会では、どの「町」も「流入増」の戦略を考えないことには将来シュリンクは明らかです。

外からの流入はどうしたら増えるか?
それにはトミタが言う「メディア化」の基本原則:functionとmessageで、まずはfunction=利便性でしょう。通勤が便利、物価が安い、日々の買物が便利、子育てがしやすい、医療が充実している…

そして、もう一方がmessage=「このまちの<○○>が好き」です。

その<○○>は、人によって違うし、違っている方がいい。その答えは千差万別の方がいいのです。それが「地域の魅力」なのですから。

しかし、長年そこに暮らしていると、地域の魅力は見えなくなってきます。日々当たり前になるから。

だからこそ、「地域芸術祭」は意味があります。

芸術家や表現者が地域の内外から集い、面白いものからよく分からないものまで、作品や場を使った表現を繰り広げる地域芸術祭。それに惹かれて集った人が、意外な感想や面白がり方、学術研究の発表や若者の夢などを残してくれて、地域のポテンシャルが見えてくる機会です。

とくに、税金を投じるものであれば、芸術祭であぶり出した「何か魅力的なもの」が一体何だったのか、その面白さやいろいろな角度からの価値を、もしくは問題提起を、こんどは町の運営者として明確にし、異論があるならオープンに議論し、芸術祭に参加しなかった人にも共有するべきだと思います。

地域芸術祭の歴史を振り返れば

2000年の夏、僕が新潟で地域エフエム局の立ち上げ仕事をしていた頃、越後妻有で「大地の芸術祭」が開かれました。それから3年おき、トリエンナーレという表現も当時は目新しく、何と言っても観光的・経済効果が大きな成果と評されました。

もちろん僕も取材し、参加しました。大自然自体と農の営みの圧倒的な凄みと美しさをベースに、一流作家たちの想像力によって場のパワーが何倍にもなる面白さに驚きました。

その後、各地でまちおこし的な意図で地域行政が計画する芸術祭が盛んに行われるようになります。基本的には大自然と著名作家という越後妻有コンセプトの延長的なものが多かったと思いますが、横浜では港を活かした芸術祭や、大分・別府では温泉と若手アーティストの交流が生む学園祭的な面白さのものも出てきて、まさに地域芸術祭百花繚乱です。

芸術家と地域住人が、作品づくりや長期間滞在での交流を通じて関係性を深めることや、他地域からのアート好きのボランティアが集うことなども、地域にとって新たな刺激と経済効果を生み出したこともあり、アートはまちづくりのための手段と考えられるようになります。

芸術自体としても、場を魅力を借りた作品や、その場でしか成り立たない作品ができることが、キュレーターや美術評論家に大いに評価されました。

そして行政や政治家には、作品や作家の評価とは別の「効果」「成果」が求められ、基本的には観光など直接経済効果と関係人口増による間接的経済効果、およびシビックプライドあたりが報告書にまとめられていきます。

墨田区の芸術祭の難しさと可能性

しかし、墨田区の芸術祭は、「町」といっても過疎地ではなく、横浜のような広大な港湾施設を会場としたものでもなく、東京23区の人口密集地でまちに開かれた形で行われる、あまり過去に例のない芸術祭なのです。

ミュージアムや限定エリアでの展示と違い、その町で暮らす住人からは違和感や、作品内容によってはクレームが出ることもあるでしょう。

しかし、「アート」は人により価値観が違うことを知る機会だからこそ有益・貴重で、そこが皆がひとつの勝利や記録を目指す「スポーツ」とは違うところです。逆に、みんながYESというものばかりが集まったら、それは恐ろしいことでもあります。

いまの地域住人に、ある種共通の価値観…「この町の人は<○○>好きな人が多い…」がかなり明確にあったとして、それは本当か? 5年後、10年後にもそうなのか? そうだとしたらその何処が好きか、何がいいのか? などを、未来の地域住人に通じる<○○>を、芸術家や表現者の力を借りてすり合わせられるのが「芸術祭の面白さ」ではないかと思います。

そして、「すみだ五彩の芸術祭」「すみだ向島Expo7」両者ともに、作品展示やパフォーマンスと同時に、かなりたくさん「対話の場」が設けられているのはとても面白く、良いことだと感じます。

しかし、そこで終わってはなりません。

それでは、PDCAの前半だけ。

アートによって顕在化した地域の過去と現在〜未来の魅力のすり合わせの作業は、アーティストと参加者・関係者だけではなく、地域政治家と行政マンがすべき仕事ではないかとも思います。

墨田区の場合、機能面だけでも流入人口は多く過疎問題は当面起きないでしょうが、それで「地域の大事な<○○>」は未来に受け継がれるのか…

どうせ流入してくれるなら、この町の<○○>が好きな人に来て欲しいですよね。

"機能面以外"の魅力—<○○> を、はっきりと認識し、醸成できるかどうかが、その町の個性を、文化を作るのでしょう。

とはいえ「今いない未来の住人」のことを想ってみても、次の選挙の1票にもならないし、税金払ってるのは現住人ですからクレーム対応も大変…。分かります。

大変なお仕事ですが、頑張ってください。

ちなみに私トミタ的には、この町の古い長屋が残る風景、そこを面白がって直して使おうとする若者、徐々にそこに惹かれて暮らし始めた人たち・・・などが、10年後もっと増えたらいいと思っています。

古くからある工場、非効率な手仕事、異常なこだわりなどを持つ職人も残り、それに惹かれる人が集うのも良いと思っております。

立派な温泉施設じゃなくても、気軽に入れる銭湯と安くて旨い大衆酒場、祭りと神輿と隅田囃子が続いてくれたらいいなと思うし、あちこちから違う音頭が聴こえる同時多発的盆踊りも面白い。

その中にいろんな国や地方からやってきた人が徐々に増えていき、担い手の構成が変わってもスピリットが変わらなければいいかなとも思っております。

すみだ向島EXPOは今度の週末11/1まで。五彩の芸術祭は12/20まで。

アート好き、地域好き、そして何だろ?と思ってる地域の皆さん、ぜひ何か覗いて見てください。

富田 剛史|とみたつよし