不朽の名作、サン=テグジュペリの「星の王子さま」とミヒャエル・エンデの「モモ」。この2冊が共通して伝えている「一番大切なこと」があります。そしてそれは、「メディアとは何か」を考えるにあたって大事なポイントです。
バラのために使った時間…その『時間』がね、君のバラをそんなにも大切なものにしたんだよ
結論から言えばそれは、「時間」です。
もう少し正確に言うと、「人が何かを想う時間」。
「星の王子さま」で、狐は王子にこう言います。
「かんじんな事は、目には見えない」
(「星の王子さま」内藤濯 訳)
この作品で最も有名なセリフの1つでしょう。そして狐はこう続けます。
「あんたが、あんたのバラをとても大切に思っているのはね、そのバラのために、ひまつぶししたからだよ」
(「星の王子さま」内藤濯 訳)
これは最も有名な内藤濯さんの訳ですが、ひまつぶしだとちょっとニュアンスが伝わりにくいので、「小河知夏劇場」のために語り劇の脚本として私が書き下ろした言葉でご紹介しましょう。
「バラのために使った時間…その『時間』がね、君のバラをそんなにも大切なものにしたんだよ」
語り劇「星の王子さま」(脚本:富田剛史)
一番大切なものは目には見えないと言うセリフが世の中には浸透していますが、ここで言いたかったのは「相手のために使った時間」なんですね。
「星の王子さま」にはこの概念は繰り返し何度も出てきます。
王子と出会ってすぐの頃、狐はこんなことも言います。
「人ってやつはだいたい、時間がぜんぜんないから、何もわからない。だから物売りのところで、出来上がったものだけを買うんだ。でも、友達はどこにも売っていないから、人には、友達ってものがちっともいない」
語り劇「星の王子さま」(脚本:富田剛史)
その後出てくる物売りのシーン、物売りは1週間に1粒飲めば喉の渇きを抑えて何も飲みたいと思わなくなる薬を売っています。
どうしてそんなものを売っているのかと問われた物売りがこう答えます。
物売り「無駄な時間を省けるからだ。博士の計算だと、1週間に53分も無駄が省ける」
王子「その53分を省いたらどうするの?」
物売り「したいことをするんだ…」
そして王子はこう心で考えます。
「53分も自由になるなら、の〜んびり水汲み場に歩いて行くほうがいいけど…」
語り劇「星の王子さま」(脚本:富田剛史)
どうでしょう。狐のセリフと共通していますよね。
他にも随所に出てくるこの考え方、一見無駄に思える時間や誰かを思う時間こそが、その時間をかけた対象をとても大切に感じる源であり、それが自らの人生の豊かさを作り出していると言うことです。
灰色の紳士たちが人々の「無駄な時間」を「貯蓄」させていくモモ
一方、ミヒャエル・エンデの「モモ」ではどうでしょうか。
そこには灰色の紳士たちが出てきます。時間貯蓄者組合の外交員です。
灰色の紳士は、人々に時間の無駄を省くように人生の隅々まで細かな数字に置き換えて論理的に説得します。
それを聞いた人々は、これまでなんと愚かな時間の使い方をしていたか…と反省をし、どんどん無駄を省いてギスギスした生き方をしていくのです。
大都会の多くの人が「時間節約」をするようになり、その数が増えれば増えるほど、本当はやりたくないがそうするより仕方ないと他の人に調子を合わせる人も増えていきます。
ラジオもテレビも新聞も、毎日毎日、時間の無駄を省ける新しい文明の利器の良さを強調し、人間が将来「本当の生活」を送れるよう時間のゆとりを生んでくれる…と宣伝しています。
しかし現実はまるっきり違います。
時間を貯蓄した人たちは、確かに他の人達より良い服を着て、お金も余計に稼ぎますが、使うのも余計です。
そして不機嫌なくたびれたおこりっぽい顔をして、トゲトゲしい目つきをしていました。
このようにして灰色の紳士たちに奪われた人々の時間を解放するために、不思議な少女モモが「時間貯蓄銀行」に乗り込んでいく…というのがこの話のストーリーです。
どうでしょう。とても共通していることが分りますよね。
サン=テグジュペリもミヒャエル・エンデも、人生を豊かにするのに最も大切なものは、一見無駄とも思える何気ない時間にある…と私たちに伝えているのです。
「時間」。もう少し正確に言うと、「人が何かを想う時間」。
「時間の費やし方」と「メディア」の意味を考えてみる
さて、ここで「メディア」とは何か、その本質を考えてみましょう。
人が他の人や、ものや、どこかの場所を思うのに、どのように時間を費やすでしょうか?
もちろん、同じ空間同じ時間を過ごすのが、最も濃厚な「時間の費やし方」でしょう。
しかし、直接対面しなくても、その対象に時間を費やす事はできますよね? それが我々の想像力です。
郷ひろみの歌に「会えない時間が、愛育てるのさ」と言う名文句が出てきますが、直接対面する以上に、対面していない時間に相手のことを思うことが増えれば増えるほど、時間を費やした対象は大切なものへと変わっていくのではないでしょうか。
何もなくとも、もちろん人は想像することができますが、何かでその対象を具体的に感じることができれば、ますます費やす時間は増えていくでしょう。
それこそが、「メディアによって誰かの時間を集める」活動の本質だと私は考えます。
インターネット時代、「媒体の総量」は無限でしょうか?
マスメディアの時代とは異なり、メディアがインターネットになってサーバーはいくらでも増やせるので、そこに乗っかっているウェブページや動画の量もいくらでも増やせる、つまり「媒体の量」は無限になった…と考える人がいますが、私はそうは思いません。
テレビや新聞や雑誌と同じように、インターネットであっても「媒体の量」に限界はあります。
結論から言えばそれは、メディアの向こうにいる、「メッセージを受け取るべき相手の時間」です。
メディアは、送り手とそのメッセージを送る手段である媒体とだけではメディアとして成立しません。それを受け取る相手がいて初めて「メディア」になるのです。
つまり、この世の「媒体の総量」は、「世の中に生きる人の時間の総量」なのです。
この原則は、テレビやラジオなどの放送も、新聞や雑誌などの印刷物も、インターネットであろうと何であろうと変わりません。
印刷物やアーカイブされた音声や映像は、後の世にもメッセージを伝え続けますので、今現在生きている人では無いかもしれませんが…。ライブと言うメディアに関して言えば、まさに今このように生きている人の時間の総量こそが媒体の限界です。
誰も奪えない「豊かさの源泉」とは何か?
さてここで、面白いことに気がつきます。
人が生きていようがいまいが、「時間」はこの宇宙空間に流れ続けていますよね。
では、誰ひとり人が生きていない宇宙で流れている時間は、「メディア」になり得るのか?
答えは、ノーです。
そうです。人にとって「時間」とは、「人が生きている時間」なんですね。
自分が生きているか死んでいるかではありません。
仮に自分が死んだ後のことを想像するにしても、そこに誰かが生きている…と言う前提で人はメッセージを残します。
未来永劫、誰かが生きているイメージが、そしてその未来の人の時間をありありとイメージすることが、今生きる私たちの人生を際限なく豊かにしてくれるキーなのだと分かります。
インターネットでは、いまどのくらいの人が自分のWEBサイトや動画で時間をすごしてくれているか、リアルタイムに計測することができます。過去に累計でどのくらいの時間が費やされたかも常に計測しています。
そしてそれは、GoogleやYou Tubeがその「メディア」を評価する基準にもなっているに違いありません。今生きている人の時間の総和は限られていますから、人々はその限界まで自分のメディアにトラフィックを集めようと必死になることでしょう。
しかしそれでは、時間どろぼうの発想と同じです。
一方で、自分が死んだあとの未来に生きる人の時間までは誰にも計測できません。だって、計測する方はもうこの世にいないのですから。
それを唯一図る方法は、想像することだけです。自分のメッセージが遠い未来の誰かにたくさん届いていることを想像する。
それは、もう誰も盗めない「豊かさの源泉」といっていいでしょう。
「星の王子さま」にも「モモ」にも、そのことが書いてあるのですね〜。
ちなみに、僕がかなりの時間をかけて脚本・演出を担当した語り劇「星の王子さま」は、小河知夏劇場で繰り返し上演の予定です。zoom上演なら気軽に見られますから、ご興味のある方はぜひ一度ご覧ください。(ちなみに、無料配信している方ではありません。本公演のをぜひ)
どの翻訳版とも違う言葉で、サン=テグジュペリが伝えたかったのはこんなことかしら…と作者と空想の会話を繰り返して書き下ろした「言葉」と「言外のメッセージ」とを詰め込んだ作品です。ご感想などお寄せ頂ければ嬉しいです。