あがた森魚というアーティストご存知でしょうか?

知らないという人は自分で調べてください。僕もよく知らないので・・・(笑)

とにかくそのあがたさんのライブを昨日観ました。

 

たまたま誘われて観に行ったんだけど、なんだかとっても良かったな。
天国という名前の小さな喫茶店で、PAも何もなく、ギター一本での弾き語り。

それでも彼の音楽性の幅広さは十二分に感じられるものだった。

 

音楽性というよりも、“文化”に向き合う幅広さっていう方が正確でしょうか。

 

もっと言うと、いま生きていること、何かを感じていること。

自分も、他人も、恋人も、家族も、生きてる街も、国も、世界も、

ほんのちっぽけでささやかな存在だけど、唯一無二で絶対の存在であること。

それがすごいことでもどうでもいいことでもなくて、ただそれだけってこと。

・・・なんだかそんな風な気持ちに、毎日ちゃんと向き合って、

いつも「どーも」って軽く挨拶してるような感じなんだな。

 

だから、あがたさんの表現手段の中心はもちろん音楽なんだけど、

たぶんそれもたまたまで、こういう人をアーティストって言うんだと思った。

ぜんぜん違うタイプだけど黒田征太郎さんを思い出したりもしたね。

 

昨日の夜に感じた面白さのすべては、

けっしてメディアでは伝わらない。

僕が感動したのは音楽だけじゃないし、

彼が語った言葉だけでもないから。

さらには、あがた森魚からうけとったメッセージだけに

心が動いたんじゃなくて、

あの空間、あの場にいた他のみんな、

あの日あの時の街が発するメッセージ、

いろんなものが混ざって、あぁいいなぁ〜と思うわけだから。

 

 

それでも、昨日のあの場の時間と空間をメディアで届けようとしたら、

完全な再現は無理だけど、メディアによっていろいろな方法があって、

カバーできる部分もいろいろある。

 

口頭とか、紙媒体、Web、放送・・・といったメディア自体の違いは、

わりと簡単に想像がつくだろう。

 

それよりね、最近このブログで何度も話題にしているんだけど、

「生」な伝え方をするか、「編集」した伝え方をするか、

この塩梅によっても伝えられることがだいぶ違う。

この2つは択一じゃなくて、生の中にも編集要素を取り込むし、逆も同様。

 

あとは、ストックかフローか。つまり1本か連続か。

 

おっと、あがたさんの話から、また「メディアの作り方」の話になってきましたね…。

こちらは詳しくは『メディア化アカデミー』で、また。