先日、また「ママ大(日本ママ起業家大学)」でイベント&生中継をしました。
「たまプラ未来会議」と題して、たまプラーザにできたばかりのコワーキングスペースNWたまプラで、"朝生"みたいな討論形式での生イベント。
「手作り感満載…」という表現もあり、しかし僕はそれをほめ言葉と受け止めているので、今日はその言葉から思ったことをずいぶん久しぶりとなったブログに書いてみましょう。
「何々用の何々」は嫌いなのです
NWたまプラは、ほぼ真四角なスペースに共同使用用の大きな長机が3列ドンドンドンとあるレイアウト。天井も一般的なオフィス並の高さで、当然ながらイベントスペースとして作られた空間ではありません。
この会場をいかし魅力的に見せるレイアウトとして、今回は会場真ん中の大きな机を舞台として、出演者はぐるりと囲む形式を考えました。そこで大机の両端にちょっとしたスクリーンが欲しいと思ったのですが、そんな都合のいいものはないので、「だったら作ってしまえ!」とギリギリのタイミングながらスタッフに手作りしてもらいました。
できばえは素晴らしく、きなりの厚地帆布が無造作に吊るされているのが思った通りいい雰囲気になりました。(人によっては「ちゃんとしたスクリーンが用意できなかったのね」と思ったかもしれませんが)
僕はなんでも作ったり工夫するのが好きで、逆に誰かが決めたことをそのまますることは大の苦手。「何々用の商品」ってものは基本的に好きじゃないのです。
例えば、イベント空間なら、ホールやイベント広場を設計したひとや設備を用意したひとの意図通りに使うことはまずありません。舞台をどこに置き、観客から見える背景がどういうものかで、そのイベントの基本的な性質が決まってしまうからです。設備側は意図した通りに“普通に”使ってもらいたいと当然思うので、僕のイベントでは毎回そこでたいへんな調整をすることになります。笑
生活空間にしても、カーテンレールという商品にカーテンという商品をかけ、テレビ台の上にテレビを乗せ、本棚に本を入れ食器棚に食器を入れる…ということが耐えられない。洗面所のコップを“洗面所用のコップという商品”の中から選ばねばならないことが耐えがたく、そんなものばかりに囲まれて暮らすことはまず絶対にできません。だってそれじゃぁツマラナイじゃないですか!?
とと姉ちゃんの編集長が守ろうとしたもの
最近は僕の仕事でも、映像を使って番組的な表現を発信することが多いですが、元々僕は映像の世界で仕事をしてきた人間ではありませんから、そっちの人の常識から見ると目を覆いたくなるようなことや考えられない常識外れなこともたくさんあるでしょう。でも、そんな映像のプロの常識からは生まれないことをたくさん作って来れたと思っているし、大事にしているところが違うのだと思っています。
表現にとって一番大事なのは、「想像力」と「作り手の熱量」です。
その大事なものを奪い去るもっとも危険なものは、「常識」と「固定観念」です。
そしてその恐ろしい固定観念を育てるのは、日々の暮らしの中で「何々用の何々」を疑問にも思わずに使うことなのではないでしょうか。
いまのNHKの連ドラ「とと姉ちゃん」で話題になっている雑誌「暮らしの手帖」は、 戦時中に政府広報にも加担した天才編集者 花森安治 が終戦で大きなショックを受け、「我々が本当に命をかけて守るべきだったのは “日々の丁寧な暮らし”だったのだ」と考えたところから生まれました。
僕もその考えが好きですし、今でもその思想は少しも輝きを失っていません。
花森らが作った「暮らしの手帖」には 戦後すぐの何も無い時代でも、想像力と作り手の熱量で、 いくらでも素敵な暮らしは自ら作れることを 毎号丁寧に教えてくれました。
復刻版の「スタイルブック(「暮しの手帖」の前身となった雑誌)」を見ましたが、自分たちが食うのにも困っていた終戦翌年の5月にこれが刊行されているとは・・・まさに執念ともいえる想像力です。
しかし、 終戦直後の「何もない状況」は大きく変わり、 いまや「日々の丁寧な暮らし」をおびやかすのは 戦争ではありません(最近はそうでもない感じもありますが…)。
ではいま何が、日々の丁寧な暮らしを おびやかそうとしているのでしょうか?
「想像力の剥奪」です。
自分には何も作れない…という幻覚を、広めている何かです。
自分にも何か価値あるものが作れる…という自信、
それを一つ一つ取り返すことこそ、大事なことではないでしょうか。
働きやすい会社がないなら作ればいい。“手作りの会社”、“手作りの社会”
「仕事」も「会社」も同じことです。
仕事がない
雇ってくれる会社がない
有効求人倍率が1.0を下回る県
完全失業率が4%を超える県
なるほど大変です。
なんとなく聴きながすニュースの言葉。 でもホントにそうなのでしょうか?
「会社」という仕組みができる前から、人は仕事をしていたのです。
“雇ってくれる会社”なんて まったくない頃から。
子育てしながら働けないなんて、そんなの妙な話です。
今の企業が考える常識に 自分の生き方がはまりづらいなら、何も無理に相手に合わせなくとも 自分で「手作り」すればいいのではないか?
好きなものがないなら作ればいいのです。
日々の装いも、食卓に並ぶ美味しいものも、仕事も会社も!
おいしいご飯と同じで、仕事も会社も自分の手におえないほど作る必要はありません。
自分と家族と、少しあまったら友人やご近所、 せいぜいその程度に行き渡ればいいのです。
(これが、僕が「ママ起業家」を後押ししている考え方です)
アルコール依存症のアメリカ先住民のことを憐れむ前に
そして、何でも「作る」大もとは、 「想像力」です。
その想像力を奪っている相手こそ、 私たちが今、戦わねばならない先なのだと思います。
「あなたは何も作る必要はないんです」
「何もしないで楽々ナントカ…」
「有名なものの方が価値がある」
「自分が作り出すものなんて価値がない」
私たちはどこかの魔術師に、 なかなかとけない呪縛をかけられているのです。
まるでアルコール依存症になったアメリカ先住民そっくりです。
なぜアメリカ先住民にアルコール依存症患者が多いのか… この話しは長くなるので詳しくはそれぞれ調べていただくとして、誤解を恐れず単純化すると
・先住民が暮らしていた土地を奪い保護区に閉じ込めた
・保護区の土地ではこれまでのようにいろいろ作れないが、アメリカインディアンとして振る舞うだけで補助金が出るし観光収入が得られるようになった
・何も作らなくても酒を飲んで暮らせるようになったが、元々アルコールに弱い体質であり、精神的なバランスも失い、アルコール依存症の患者が増えた
何だか可哀想ね…と他人事みたいに思ったあなた、よく考えてみてください。
彼らは私たちだと思いませんか?
元々いろいろな土地でいろんな工夫をしながら生きてきたのに、経済発展と共に都市に「労働力」として連れて来られ、文句をいわず働いていると「給与」をもらえて、お金さえあれば何でも手に入ることを覚えさせられた。
お金に対する免疫が弱い人たちは、現金を稼ぎ出すことだけが仕事だと信じるようになり、自分で何か工夫するなんてことはツマラヌことだと忘れさせられて、いまやすっかり何もかも、作り方も直し方も忘れてしまった。そしてひたすら消費に依存する暮らしに・・・。
その脱却“専用”のプログラムなんて必要ありません。
自分で何かを工夫できる想像力を取り戻し、ちっぽけな何かを自分で作り出してみることで、あなたの中にある「作る力」がワクワクしはじめます。
そして、その唯一無二の不器用な何かが「あんがい悪くない」「なんだか愛おしい」と思えたら、きっと世界が変わっていくのだと思います。
でも、「敵」もなかなかですから、そう簡単には「あんがい悪くない」「なんだか愛おしい」と思えないように仕掛けてくることでしょう。
ここで大事な役割を果たすのが「メディア」です。メディアが発信してくる価値観によって、それは魅力的に輝いたり色褪せて見えたりするのです。
ですので僕は「コチラ側の価値観」をもったメディアを作り、メディアの作り手を増やしていきたいと思っているのですよ。
花森さんと酒でも飲みながら話してみたかったなぁ。