社員を過労自殺させた電通の件、年も押し詰まってからついに社長辞任にまで至りました。

もちろん良くないし改善は必然ですが、エンターテインメントやメディアの現場で働く人たちにとって仕事は決して「時間労働」ではありません。
これに関連して、やはり労基署から指導を受けたらしいavexの松浦社長のブログが話題になっていたので、すごく久しぶりに松浦君のブログも覗いてみたところ(ちなみに、高校の同級生なのです)、やはり彼らしい想いがストレートに溢れていました。
「労基法」が現代の働き方に合っておらず、もちろん現行法は遵守するが、時代に合わなくなった法律は早く変えられるべき、うんぬん・・・。それに共感する人のコメントも多数ある一方で「やりがいの搾取」などの批難がバズになったのも事実です。僕は松浦社長のいう仕事の仕方は当然と思いますが「時代の現実に法のほうを合わせていては法がある意味がない」というご意見ももっともだなぁと思ったりしました。

さて、前置きが長くなりましたが、ここでは現行法のコンプライアンスの話ではなく、もっと根本的に「働く」って何なのか、未来はどこに向かっているのかを考えてみたいと思います。

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「働」という漢字は中国語にはないんです

実は、「働く」という漢字は中国語にはないことご存知ですか? 中国語では仕事は「工作」と書きます。「労働者」は「工作人」。「労働」という言葉は「労動」で、実はこれは日本語から逆輸入した概念と言葉ということ。で、「働く」という字がないので「動」になった。

ではそれまでどう表現していたかというと、いわゆる労働は農作業や何かを作ることなので、「耕」や「工」、「作」で表していたようです。

よくお坊さんの法話なんかで聴くことですが、日本語の「はたらく」の語源は「はたを楽にする」つまり誰かの役に立つということだという話、この人ベンに動くという字が国字だということも含めて実に日本人らしい話ですね。

 

一方で西洋の「Labor」の語源は苦役にあります。元々楽園にいたアダムとイブが約束をやぶって林檎の実を食べてから、人は「労働」しなければ食っていけなくなってしまった。罪の償いが労働なんですね。(そうして見ると、Macのアップルマークも辛い労働の元凶みたいなものですが)

だからこそ、「休日」が重要だし、「ワーク」と「ライフ」はバランスしてなきゃ…という考え方になっていくわけです。ワークは苦役でライフは楽しみということでしょう。しかしそもそも日本ではそんな考え方は無かったし、「休日」や「休み」という概念もまったく違うものだったでしょう。

別に「江戸時代に戻りましょう」と思っているわけではありません。「未来にどうなるのか」を考えてみたいのです。

 

人工知能(AI)や機械に奪われない3つのスキル

アメリカのコンサルティング会社「ビートラックス」社が今年2016年の初めに発表した「人工知能 (AI)や機械に絶対奪われない3つのスキル」によれば

  • クリエイティブ
  • リーダーシップ
  • 起業家

が3つのスキルだそうで、この比較のフェイズが無茶苦茶な3つの並べ方は面白いなぁと思いつつ、僕にはこの話が妙に合点がいって今年あちこちでこの話題を取り上げてきました。

そして、もうお分かりだと思いますが、これらはいわゆる「時間労働」では成し得ないことばかりです。

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労働基準法で前提としている「労働」という概念は、労力を時間で売って糧を得るという産業革命から続いている働き方でしょうが、そういう働き方自体が今後すごい勢いで無くなっていくのは間違いありません。

今年は、AIの発展ぶりを感じさせるニュースもたくさんありましたよね。チェスも将棋も人間が劣勢となったボードゲームの最後の砦「囲碁」の対極は何とか人間が頑張ったようですが、もうほとんど互角のところに来ているのは明らかです。

IoTもどんどん深化し、ローソンでは無人レジの実験がスタート。2018年には導入が本格化されるとのこと。「パート」の仕事の代表格といえば「レジうち」ですが、あと数年後には「つい最近まで、日本中すべてのスーパーやコンビニのレジに人が立って打ち込んでいたんだよ〜」と子供に話すと「え〜?ウソでしょ?いったい何年前の話〜?」と笑われるようになるでしょう。

それをイメージできない人は、少し前まで日本中すべての駅の改札に切符きりの駅員さんたちが軽やかにハサミの音を響かせていたことを思い出してください(僕が、その話をすると、若者は「え〜神駅員〜?」とかいうけど…)。あの超人的なテクニックを持った職人駅員たち、全国に何万人もいただろう彼らはほんの数年のうちにすっかりいなくなってしまったのです。

道路工事の赤い棒振りも今ではすっかり映像サインに奪われ、売れないヘビメタのバンドマンはいま何のバイトをしているのか・・・。ビル掃除だってきっとルンバとスパイダーマンが一緒になったようなヤツがすぐにできることでしょう。高層ビルの窓掃除を人がしていたなんて、子供たちは絶対に信じないに違いありません。

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こういうことを考えると、「労働者」にとっての根本的な危機が、労基署が考えるようなこととは別のレベルで迫っているのは間違いないわけで、「労働」という考え方自体を今のうちに脱しておかないと、コンプライアンスを盾に守られるものでもないのだということを、多くの労働者は自覚しておいた方が良いのではないかと思うわけです。

そう、それは案外早くやってきますよ。自分が引退したあとの話し…などではまったく無いでしょう。

 

労働の報酬、仕事の報酬

僕はまったく見てませんでしたが「逃げ恥」というドラマが話題になりました。プロの家事労働者として偽装結婚生活をしつつお金をもらっていたヒロインが、そのうち本当に好きになって結婚してしまった後に報酬はどうなるか・・・という設定で、実にいまらしい形で「労働」と「仕事」との問題をくっきりと浮かび上がらせているのが愉快です。

ドラマの結末は知りませんが、僕の考え方では家事はもちろん立派な「仕事」です。専業主婦が働いてないなんてとんでもない、「はた楽」のエキスパートに違いありません。しかしその報酬は何も「お金」にて受け取るものではないというだけの話。もっと素晴らしいもので報酬を受け取るのがこの仕事の本質でしょう。

ではいったい何が家事仕事の報酬なのか?

ひとつは、仕事自体から得られる喜び・・・満足感や達成感。誰が褒めてくれるからでもなく、自分なりの喜びが重要なのですが、これがなかなか難しくもあります。「そんなの無理!」って声が聴こえてきそうです。でも、本質はそういうものなのだと思います。

次に、誰かがそれを喜んでくれたり、さらにそれでお礼の言葉や褒めてくれたりしたときの嬉しい気持ち。

「そんな言葉じゃ腹はふくらまない!」と思うかも知れませんが、いえいえそれよりも大事なものを得ているのです。それは「信頼」であり「好き」という気持ちです。

ホリエモンこと堀江貴文氏は、「お金とは信頼の数値化である」と言い切っていましたが、まさに「金言」だと思います。いい換えれば、「信頼や感謝さえたくさん蓄積してあればお金が無くても生きていける」ということです。家事という仕事を通じて、家族の揺るぎなき信頼と感謝を得ていればもちろん幸せに生きていけるわけで、これは家族に限らず社会との関係でも同じことがいえるでしょう。

 

仕事の報酬とは本来、自分の「喜び」、相手の「信頼」、そしてその数値化としての「お金」この3つをセットにしてもらうことであって、「お金」をもらうことだけを仕事と考えると話がおかしくなってきます。

ところが、現代の商取引きの中では、多くの人が「お金」だけを考えてきました。「喜び」や「信頼」は経済では論じられず、本当は大きな価値なのにも関わらずそこに無いものとされてきたわけです。

しかし今まさに、その価値の大きさを多くの人が気にするようになり、まだまだ始まったばかりではあるものの、「お金」以上に「喜び」や「信頼」の報酬を気にして働く人が増えてきた・・・という時代なのではないでしょうか。(「N女の研究」など、お読みあれ)

 

考えてみれば、人はそれほど昔から「お金」が報酬の中心だったわけではありません。中世までは、どの国でも食べ物や土地やいろいろな形で報酬や感謝を形に替えてきたはずです。

「お金」は極めて兌換性(何にでもかえられる)が高いので非常に便利ですし、「お金に色はない」といわれるように、何をして稼いだお金であろうと100万円は100万円の価値と交換可能です。そして貯蓄するのにも非常に便利ですし、投資するのも便利であって、「報酬」の形として実にすぐれた大発明です。

さらに、金貨などで重くてかさばったお金を安全に預かり、その預かり証として「紙幣」にしてくれた銀行の登場によってもっとお金は便利になります。いまでは紙幣でさえもなく口座上の数字の書き換えだけでやり取りができるようになってますます利便性が高まっています。

しかし、お金を「労働」で貯めることは非常に難しくなっているのが現実です。多くのお金を蓄積しようとしたら「労働」の考え方から出るしかない…というのは、「金持ち父さん・・・」でも読むとよく分かります。AIと機械の発展によって、今後ますます「労働」の価値単価は下がるに違いありません。

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それに比べて「喜び」や「信頼」はどうでしょうか?
ある意味、お金よりも何倍もの価値を持っているともいえます。使っても使っても無くなりません。使い方によってはどんどん蓄積されていきます。だからこそいま皆が注目しているのです。

しかし極めて流通がしにくく、しかもお金と違って、蓄積していたものを「保証」は誰もしてくれず、ちょっとしたことで一夜にして失くしてしまうかもしれないものでもあります。お金と違って「信頼には色がある」のです。

なので、お金のように単純に貯めることはできません。得られたとしても蓄積して終わりにはならない価値が信頼であって、それをキープするにはどうすればいいか? それは本当の意味で、はたを楽にするいい「仕事」をし続けるしかないのではないでしょうか。

でもそれは、決して「苦役」ではなく、「喜び」そのものなはずです。

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今年も一年、忙しかったけどホントに楽しかったなぁ〜。皆さん、ありがとうございました!

2017年もよく働きたいと思います。

よろしくお願いいたします。

 

富田剛史 拝