昨夜、いつもお世話になっているご隠居のお誘いで、ネッツトヨタ北九州10周年プレイベントとして、北九州芸術劇場で手嶌葵のライブを観せて頂いた。久しぶりに観た葵ちゃんは、昔とちっとも変わりなく、ふんわりした少女のままだった。
僕はたまたま、手嶌葵の手ビュー前のライブに韓国に一緒に行った経験がある。ゴンザレス鈴木さんが、素晴らしいボーカルがいると言ってフィーチャーし、そのときのデモテープがスタジオジブリの鈴木プロデューサーの耳に届き、その後「ゲド戦記」で歌+声優として鮮烈なデビューを果たすきっかけになるイベントだった。
その頃は、やや自閉症気味の壊れやすい少女だったが、それよりは少しだけオトナになりながらも、柔らかい部分はそのまま残して20代後半に入った手嶌葵の声は、昔とちっとも変わっていなかった。
僕はとってもいい声だなぁ〜と親戚のおじさんのような気分になっていたんだが、同じ会場のどこかで観て、その後一緒にご飯を食べに行った友人たちは少々不満そうなことを言っていた。
なんと言っていたかというと、「まるで聖歌でも歌っているような…」「カバーというよりただ歌っている感じ…」みたいなこと。
要するに言いたいことは、プロとして人を感動させようという気持ちが入ってない歌・・・ということなのかもしれない。確かにね〜、でもそれで良いのだ手嶌葵は。
誤解を恐れずに言えば、手嶌葵の歌の魅力というのは、いわゆるプロの歌手のそれではまったくないと僕は思う。
例えばそれは、歌のうまいお母さんの鼻唄みたいな感じなんだな。
そんなことを言うと、葵ちゃんにもファンの方にも怒られそうだけど、僕はそこがとても好きなのだ。上手く言えないが、それって本当にすごいことだと思う。
だって、お母さんの鼻唄ほど、サイコーに幸せな歌声は他にないんだから。
オーディエンスを感動させようとか、この歌が売れて大スターになるとか、そんなことまったく関係なく、家族の健康と幸せを思いながら洗濯物を干しつつ思わず唄うそのメロディ。それは本当に素敵な歌声で、そんな感じの歌をたくさんの聴衆を前に、そんなことは意に介さず、自然体で唄える手嶌葵は、まさしく天才に間違いない。
葵ちゃんはいつまで少女のままで居られるのだろう。
親戚のおじさんのような気分で少し心配しつつ、少女のままでいる葵ちゃんの周りの人々の苦労も思いつつ、それでもその奇跡的なバランスの中で聴いたライブの貴重さを、改めて思ったのでした。
真鍋さん、朝広のみなさん、お疲れさまでした!
いいライブを、ありがとうございました。