「えらい目に遭った!」は無いだろ、おい!
「オリンピック公式エンブレム白紙撤回!」「え〜〜っ!」全国民がひざ裏をカックンとされたような残念な事件だったけど、先の新国立競技場の白紙撤回問題などもあって、多くの人が思考停止になっている感が否めません。「あぁ〜、やっぱりね〜」ってな感じ。
しかし、ぜんぜん問題が解決していないし、誰も責任を取ってない、取ろうとしていない。
佐野氏一人を悪者にして、彼が精神的に耐えられなくなって「もう降ります」で終わり?
組織委員会は、なぜ誰も責任を取らないのか?
森嘉朗のおっさんなど、「えらい目に遭った!」とまったく他人事のような発言。
ホントこいつばかりは許しがたい。
組織委員会は、撤回発表の数日前にも「エンブレムのデザインは知的財産的に問題ない」と名言していたわけで、今回の撤回は「デザイナーの佐野さんが撤回したいというから了承した」という立場を取ってるけど、そんなのあり得ないでしょ?
佐野さんの撤回表明にしても、「盗作や模倣では断じて無いが、これだけ悪イメージが広がったのでやめたい」ということ。使用例説明で他人の画像データを勝手に借用したとか、ぜんぜん別の仕事で盗作問題があったとか、確かにそれは問題ではありますが、それと今回のエンブレムが他者の知的財産権を侵しているかは別問題。そこは一歩も譲ってないわけです。
著作権問題じゃないなら、問題の本質は?
つまり、法的には断じて問題ではないけれど、みんなが納得しないから撤回ということ。
これが結論なわけですね?
それならそれで良いですよ。佐野さんはね。
この「撤回」という事実が残るだけでも彼は相当の痛手だし、これまでの過程でもかなりの攻めを負ってきた。
もちろん佐野氏と彼の事務所の過去の仕事ぶりにはいろんな問題があったとは思います。
「売れっ子」という看板に甘えていい気になっていたんじゃないの〜・・・という批判にも耐えねばならないでしょう。
しかし今回の一連の件で、デザイナーという個人のクリエイティビティを看板にする職としては、(異論はあるでしょうが)それなりに「責任」を取ったというか、取らざるを得なかったというか、そういう状況だと思います。
それに比べて、あの組織委員会のトップたちは何か? 森喜朗に至っては「えらい目に遭った」とまったくの他人事。
そうじゃなくて、佐野氏に対して「えらい目に遭わせたね」と詫びて、武藤と一緒にお前が辞めろよ。
デザインの法的類似性が問題じゃなくて、世間を騒がせたこと、国民の信頼を失したことが問題の本質だとしたら、それは佐野氏だけの問題なのですか?
最悪なのは、オリジナル制作ということ自体が敬遠されること
ちょっとクールダウン。
このブログで言いたいのは、もはやそんな森や武藤の責任問題でもありません。
そうではなくて、この件をきっかけに「やっぱりオリジナルを作るなんてやめようよ」という空気が広がらないで欲しいと言うことです。
特に行政マンの皆さん、大企業の皆さん、「オリジナル制作はキケンだ」「既にあるものを使って、必要なライセンス料を払う方がいい」・・・ようやく個性の時代、コンテンツの時代、オリジナル発信の時代となってきたのに、そういう動きが広がるのは国家的損失です!それこそがこの問題の最も大きな影響なのではないでしょうか。
デザインも音楽も、小説や映画・ドラマや、洋服や料理や、その他あらゆるクリエイティブな作品が、過去に誰かが世界中のどこかで作ったものと類似していないことを証明するのは生やさしいことではないでしょう。
逆に、インターネットが世界の隅々まで繋がる時代に、ちょっと目立つ状況になった作品を取上げて、自分の過去の作品との類似性を訴える人にとっては、こんなにやりやすい状況は過去に無いでしょう。
しかし、それでもみんなオリジナルを作ってほしいと思うのです。
子どもの頃には誰もが好きな絵を描いたように、自ら何か魅力を生み出すことは、誰もが持つ権利であり、当たり前の能力であり、人間の本能なのではないかと思うのです。
そしてそれをまったく無くしてしまったら、どんなに他人が作った素敵なものに溢れていようと、その空間・地域・街に流れる時間が幸せなものになると思えないのです。
他人の作ったものと似てくるリスクは確かにあります。
でも、その時はその対処法をもっとうまく考えていけば良いでしょう。
不幸せになる可能性があるから恋をしないなんてあり得ないように、みなさん類似性リスクでオリジナル制作を敬遠するなんてことの無いように、心から願うものであります。
(お詫び:五輪組織委員会の許可なく画像を掲載しております〜^。^)