メディアプロデューサー&クリエイティブ・ディレクター、日本ママ起業家大学 理事 トミタプロデュース株式会社 富田剛史です。
私はここ10年ほど、環境省やJICAと関わりがあって、ESDとかSDGsとか身近に聴いてきましたが、一般には「何ですかそれ?」ですよね〜。とにかく分かりにくい。だけど、本当はもっと子供でも分かるシンプルなイメージでないと実現しないでしょ、そのゴールは。男は一般に分かりにくい言葉を使いたがります。漢字熟語や英語の略語。
でも、だから世界は変わりません。普通の生活してる人が分かるように話そう。女性や子供やお年寄りなど、ビジネスや国際機関の第一線にいない人の発想で見つめ直さないと世界は変わらないと思うからです。
誰かの何かのヒントになればと思い、別目線からSDGsを見てみます。
SDGsとは何か? 小学生にも分かる言葉で考えてみる
SDGsとは、Sustainable Development Goals(=持続可能な開発目標)…なのですが、実に分かりにくい。
「Goals」を「目標」といわず、これをトミタ的に翻訳すると
「2030年にあるべき世界の姿」
ということですね。
先に、2030年にあるべき未来の世界の想像図を詳細に描いてしまって、それをあと11〜2年で実現するのにどうしたら良いかを逆算して考えるってこと。
その「未来の姿」が17の分野(これも不思議〜な分け方なんだけど、まあいいでしょう)に分かれていて、シンボリックにアイコン化されているんですね。
そして、その17の分野にまた細分化したテーマがそれぞれ10個くらいあるわけです。
中身を一つ一つ解説するとかえって分からなくなるので、またざっくりと翻訳すると
- 世界に貧しすぎて困ってる人や餓死する人がいなくなっていて
- 男も女も、子供も年寄りも、障害者もLGBTも、みんな楽しく暮らしていて
- どの国もどんな人も、仕事もやりがいもあって、不平等なことがなくなっていて
- 戦争なんかしないでみんなで協力しあって
- 好きな街や町がずっと続き、また豊かな自然もずっと続くようにしていく
2030年にはそんな世界になっているようにしよう・・・ってことですね。
こういうビジョンならジョン・レノンもとっくに想像してました。
ただ、レノンが夢見ていた頃は、そんな世界がいつ来るかまでは想像できなかったんですが、国連の偉い人たちがスゴイのは「この理想の未来」を2030年!って決めたところなんですね。
「でも、そんなの勝手に決めても無理でしょ?」と思ったあなた、案外そうでもないかもしれません。
ここが実に面白いので、「できるかもの理由」を説明したいと思いますが、その前にちょっと横道に反れましょう。
なぜSDGsが必要になったんだっけ?
そもそも、「2030年にあるべき未来の形」と「現在」とがほど遠い姿になっているのはなぜでしょうか? 「ゴール」を考える前に、ここで「スタート」位置に戻ってみましょう。
ここで想像力のタイムマシーンに乗って、中世あたりに行ってみましょう。
世界は封建主義で、王侯貴族の圧政に苦しむ一般民衆・・・というイメージもありますが、一部の特権階級は特例として、その他は今ほどに貧富の差はなかったはずです。
日本の江戸時代はそれなりにみんな楽しく暮らしていそうですし、欧米はよく知らないけど、少なくとも世界中の富のほとんどをほんの一握りの人間が「所有」しているなんてことはなかったでしょう。いま「途上国」と言われるような国ならなおさら、昔話の世界のような日々だったのではないでしょうか。
それが、どうしてこれほど必死に「対策」しなくてはならないほど、世界に「貧富格差」と「差別や不平等」「自然破壊」が進んでしまったのだと思いますか?
答えは、産業革命以降の近代に、国営も含む「大企業」が、まさかこれほど世界に「貧富格差」と「差別や不平等」「自然破壊」が進むとは思ってもみず、ただ純粋にお金を稼ぐ競争を続けたからではないでしょうか。
また、大企業が支える経済力が「国力」となり「軍事力」となり、国もその「競争」に加担し、そういう発想でない国や、出遅れてしまった国との格差がどんどん広がった…これが20世紀です。
第二次世界大戦の後も「経済競争」という合法的な戦争が続き、激化しているとも言えますが、人間同士の闘いだけでなく地球環境まで敗北者になったら誰も勝利者がいなくなると気づいて、慌てて「エコ」だの「持続可能(サスティナブル)」だの言い出したのが20世紀も終盤近くのことでした。
しかし、発展途上国といわれる後発組は「先進国だけ好き勝手やったあとに”エコ”なんて言うなよ〜」と反発します。また先進国の中でも、新興企業や若者が俺たちはまだまだこれから「発展」するんだよ!とどんどん出てきます。そしてますます、環境だけでなく地球規模の問題が噴出していくようになります。
そこで単に「サスティナブル」だけじゃなく「発展」もくっつけて、「持続可能な発展」という非常に人間に都合のいい、分かったようで分からないキーワードが出てくるわけです。
国連がいう「持続可能な開発の3つの側面」を簡単な言葉でいうと
ここで、国連が作ったSDGsを広めたい人のための虎の巻と銘打った「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」という資料に出てくるフレーズを見てみましょう。
SDGsを説明する一番最初に、持続可能な開発の3つの側面を説明していて、そこにこう書いてあります。
持続可能な開発の3つの側面
- 持続可能な開発は、将来の世代がそのニーズを充足する能力を損なわずに、現世代のニーズを充足する開発と定義
- 持続可能な開発を達成するためには、経済成長、社会的包摂、環境保護という3つの主要素を調和させることが不可欠
意味わかりますか? 「????」ですよね。
とくに、「経済成長、社会的包摂、環境保護という3つの主要素」というのが分かりにくい。
「包摂」って何?「ホウセツ」??なんでそんな言葉を使うのか、こういうことを考えるプロジェクトに私が入って変えていきたいところですが、呼ばれないので仕方ない…。勝手にまた翻訳していきます。
「包摂」ってのは、辞書的にはより上の概念でくくるってことで、例えば「哺乳類も爬虫類も動物に包摂される」「動物も魚類も昆虫も植物も生き物に包摂される」みたいなことらしいけど、そんなめんどくさい言葉つかわなくても、「みんな、 〜 です」「〜 と考えると、みんな仲間です」みたいなことですよね。
「社会的包摂」というのは、「仲間はずれとか差別をしない」ってことでしょう。たぶん。
ということで、国連の資料にある「持続可能な開発の主要要素」
「経済成長、社会的包摂、環境保護という3つの主要素」を翻訳すると、
「金儲けしたい人」と「差別されたくない人」の気持ちと、「地球環境」という3つの要素ということですかね。
もっとシンプルにいうと、
①お金
②満足感
③環境
の3要素をバランスを取るということ。
ここで「ゴールズ」つまり「未来の姿」というのを考えると、先の3つに対応して
①貧乏で困ってるひとを無くすこと
②差別や拒絶のない社会をつくること
③人間ばかり勝手なことをしないこと
あたりが「ゴール」なんですが、その状況を作った張本人が自身の益を削ってそれを実現する発想にならないとこの「ゴール」は来ないので、回りくどい言い方になりますが、大企業や先進国首脳の本音も混ぜて書くとこうなります。
①貧乏で困ってるひとを無くしながら、企業・国は儲け続けること
②差別や拒絶のない社会をつくりながら、企業・国も愛され続けること
③自然環境に気をつけながら、企業・国が活動できるようにすること
これが、企業側、国家側がすべきことの要点なのだと思います。
SGDsとは、まるで人類全体が2030年に合格を目指す入試のようなもの
これまで書いてきたようにSDGsとは「目指す未来の姿」です。
例えていうなら、どうしても入りたい「大学の入試」みたいなものです。次の春には◎◎大生になりたい…という高校生が、17の試験科目に取り組んでいるようなもの。
その試験勉強の指南書やセミナーが分かりにくすぎなので、こうして「よく分かるSDGs」を書いている…という感じ。
さて、ここでこの入試に臨む「人類くん」のことを考えてみます。
「人類くん」は実は多重人格者なのです。主に3つの人格を持っています。
元々は、【個人】です。これはいろーんな価値観の人がいます。もちろん「意思」を持っている”人格”です。
次に、【国家】です。政治家と行政とで動く組織で、「社会」とは似て非なるもの。社会は集合知と相互関係で個人の行動をふんわりと規定してますが、国家は動かす人間の「意思」がハッキリした”人格を持つ存在”です。
次に【法人】です。個人とも国家とも違う形で「意思」を持っています。”法人格”ですね。
ここで、SDGsをゴール突破するための重要人格【法人】について考えてみましょう。
法人にもいろいろな企業理念や行動規範がありますが、どんな法人も原理原則として「利潤追求」と「存続」という2つが法人の意思の本質だと考えた方がいい。
法人とは「合理的な存在」である、このことが個人と最も違うことです。
こういうと「え?人間はみんな基本的に合理的な存在ではないの??」と思う人もいるかもしれません。
または、「物事を合理的・論理的に考えられないのはダメなことだ」と正すべき存在と見る人がいるかもしれません。
しかしそんなことはありません。
論理的に考える人たちにはその存在が例外程度にしか見えないかもしれませんが、世の中にはそういう人が案外たくさんいるのです。
例えば、アーティスト、表現者、制作者など、クリエイティブなことが好きな人たち。
また、女性は基本的に論理よりも感覚を大事に生きているものでしょう。「ビジネス」の名のもと合理志向、論理思考を訓練されて、競争や闘争に勝つことが大好きになった女性もいますけれど、それが本来の姿とは思えません。
性的マイノリティーや障害者、人と違う指向を持つ人たちも、合理的・論理的な価値基準では「価値なーし」と言われるものが好きだったりします。
世の中には2種類の人がいる。「合理的に考える人」と「そうでない人」
つまり、世の中には大きく分けて2つの種類の人がいるということ。
A 合理的、論理的に物を考え、競争に勝つのが好きで得意な人
B 感覚的、自分の価値観に従って物をとらえ、競争にはあまり興味のない人
(あなたはどっち?)
そして、「経済」はAの人によって回り、Aにお金が集中するということです。
しかしあまりに行き過ぎていろいろな問題が出てきたために、このままでは全体が破綻するかもしれない…と、これも主にAの人が気がついたんですね。
そして、長い論考の末に決めた2030年のあるべき姿がSDGsということです。
だから、誤解を恐れずざっくりというと、Bの人たちのことをAの人たちが「認め」「助け」「幸せ」にしよう、ということがSDGsという難関ゴール突破の大きな鍵です。
一方で、Bの人たちはAに頼るだけ施しを受けるだけの存在では、合理的なAは動きません。
Bの方がAより優れている点を、しっかり打ち出して行く必要があるわけです。
それは何か?
ひと言でいうと「非合理的な魅力」です。
◎美しい
◎面白い
◎感動的
◎心揺さぶられる
◎愛おしい
いろいろありますが、なにかそいうこと。合理思考だけでは絶対出てこないことです。
こう書くと、何かとても優れていないと無理のような気がするかもしれませんが、ぜんぜんそういうことではありません。何を面白いと思うか、何に心揺さぶられるかは、人によってまったく違うんですから。
ここで、Bの人たちがどうしても身につけておきたいノウハウがあります。
それは「プロデュース力」と「自主独立できる自律力」です。
前者はAがBをサポートする大きな理由になり、後者はそれを一過性で終わらせないために必須だからです。大企業や国家にちょっと褒めてもらって「嬉しい〜、あの◎◎◎と一緒に仕事できた」とぽーっとなって喜んでいては、「ゴール」に程遠い今の状況は変わりませんし後に続くべき人の道も見えません。
なぜ大企業が、個性が光るマイノリティや個人をサポートするのか
Bが考えるべきは、トミタがいつもいう「ファンクション」と「メッセージ」のうちメッセージを中心に自分の見せ方を考え、コンセプトを研ぎ、コピーライトやデザインを意識しつつ、しかしそれを表面的なテクニックで考えるのではなく、想いがまっすぐ伝わる形に仕上げていくことが大切です。「コンテンツ」といえる形にするのです。
マイナーなもの、資金も組織力も政治力も劣るものが未来を切り拓くのには、論理的積み上げではない「魅力」を磨き、コンテンツといえるような「対象」となり、顕在化させるプロデュース力が必要だと感じます。
この「魅力」を顕在化させられれば、Aは合理的な理由によってBをサポートします。
なぜなら、Aに資金を提供する機関投資家が、2030年にその企業がSDGs目標ゴールを突破するかどうかをチェックするようになったから、これがひとつ。
これまで株主総会でチェックされてきた収益性やガバナンスに加えて、SDGsにどう取り組み、それが企業価値を持続的に向上させるかどうかがチェックされるようになり、今後ますますそうなるからです。SGDsに真剣に取り組んでいないと資金が調達できないのです。
もう一つは「注目」というメディアトラフィック(マスコミやネット、直接口コミなどを通じて得られる「評判」)が得られるからです。
インターネットが情報流通の主役である現代ではとくに、この「注目」「評判」は企業にとって【資本】そのものです。企業は経済活動を通じて「お金」という経済益と同時に「評判」という評価益を稼がないと、ビジネスが回らなくなっているということです。
ちなみにこの概念は、江戸時代の日本では普通にありました。
その時代、「お金」は人にとって最上位の価値ではなく、「立派だ」「徳がある」という方が価値が高かったんですね、武士道精神が庶民にも浸透した日本人の文化の中では。
なので、近江商人で有名な「三方良し」・・・売り手よし、買い手よし、世間よし・・・という家訓が出てきます。これは、近江商人がとっても気持ちのあったかい人だったというよりも、評価益を貯めないと商売にならないという本質を知っていたから出た合理的行動なのだと思います。(いや、もちろん気持ちもあったかかったと思います。はい)
SDGs達成のためにすべきこと、すべきでないこと
BがAにサポートされるときに、気をつけた方がいいことがあります。
それは「自立」です。
一般的には、個人の何かの活動を有名企業がサポートしてくれると気持ちが舞い上がりますから「企業様〜」となりがちなのですが、その気持はぐっと抑えて、お互いにイーブンな関係を強く意識しておくことが大事です。
このことは、もっと丁寧に書かないと伝わらないので、また改めて書くことにしますが、企業側の枠組みの中で輝くのではなく、自分なりの満足感を大事にしながら「自主独立」している状況をキープできることが非常に大切でしょう。
逆にSGDsを考える大企業の方、行政の方にお伝えしたいのは、個々人や小さな組織が自立していける方向で考えたほうがいいですよ、ということです。
「ゴール」が達成された2030年は、どんな未来になっているでしょうか?
おそらく、「大企業」の中身が20世紀とは大きく違っているでしょう。
超有名で巨額のビジネスをしているものの、社員数は極めて少ないというところが多いことでしょう。
まるで恐竜のように大企業・グローバル企業の時代が終わるとはいいません。ただ、かつてのように大企業によってたくさんの雇用と多くの社員や家族への経済還元が成された時代ではなくなるのは確かでしょう。
AIやロボットなどのますますの発展で、合理化で不要となった人材に、ITを駆使したマッチングによるギグ・エコノミー発展やスキマ時間でのパートタイム労働を効率的に提供する・・・ということは一時的には流行るかもしれませんが、SGDsの本質的なゴール突破になるとは思えないのです。
働き方改革の議論ではさかんに「雇用を前提にした働き方改革」が叫ばれていますが、果たしてそれが2030にテープを切るべき持続可能な未来のゴールでしょうか? 今はまだ「雇用される労働者」が多い時代なのでそれも必要でしょうが、AIやロボットやITの進化で先に行けば行くほど単純労働は機械に置き換わるのは見えているはずです。
弱者やマイノリティ、少々風変わりな面白い人達、そして多くの女性たちなどを、言葉は悪いですが企業にとって「都合のいいパーツ」や「広報的な客寄せパンダ」的な対象と考える気持ちがどこかあるとしたなら、20世紀の経済発展が押し進めた「不幸な未来」の方向性と変わらないのではないでしょうか。
もしこれを読んで、気に障る方がいらっしゃったら申し訳ありません。ただ、少し心配なのです。それでは最終的には問題の解決にならず、ゴール突破になっていない以上、結果としてはその施策をとった企業・国家自体がうまくいかない未来が来るのではないかと・・・。
私は、“企業に雇用されないと仕事ができないと考えている個人”が、小さくても自主独立して生きていける仕組みを推進することが、いま取組むべき最重要な課題ではないかと思います。
自立した個人事業主や、お店や、何かの先生、表現者、小さなメーカー、小さなサービス提供者がたくさん育ち、それぞれに少しづつファンに支持されて生きているという状況が、私が思う「あるべき未来の姿」です。どこかのCEOのように数十億の年収などではなく、自分たちが継続的に誇りをもって仕事をしていける程度の「自立性」を持った多くの事業者がいる社会。
もちろん、大企業が提供するサービスや商品も消費しますから、「消費者」としてそういう人がたくさんイキイキと生きていることが結局は大企業にとっても重要でしょう。こういう自主独立した小さな事業者であり消費者である人たちをたくさん育て、彼らに支持されることが、いまSGDs推進の大企業の取組むべきことではないでしょうか。ご希望あればトミタプロデュースでいつでも一緒に考えます。
トミタプロデュースで取組む「地方創生」のプロジェクトも、素晴らしい小規模事業者がたくさん育っている「日本ママ起業家大学」や、メディア化コンサルティングをしているクライアントとの仕事も、研修を担当している企業・団体との仕事も、すべてはこの「未来の姿」を目指すためにやっているんだなぁと、SDGsのことを考えてみて改めて思った2018年の暮れでした。
“SDGsとは何か、女性や子供の視点に立ってやさしい言葉で考えてみた” に対して1件のコメントがあります。
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