トミタブログ

「ハレとケ」とは?メディアを通じたハレの場と生身の体があるケの時間…2つの世界の自分を意識しよう

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富士山 ハレの象徴的存在

メディアプロデューサー/メディア化支援コンサルタント トミタプロデュースの富田剛史です。

後に歴史的な年と語られるであろう2020年が終わり、2021年がやってきました。

そんな晴れがましい2021年の正月に「ハレとケ」について考えていました。
私はプロデュース業という職業柄、「生本番」の時間を何度となく体験してきましたが、この「生本番」の時間は、日本人におなじみのハレとケの「ハレ」に近いなぁとふと思ったわけです。

「ハレとケ」とは何か? トミタ流に考えてみれば・・・

ハレとケは、民俗学の草分け柳田國男が注目した日本独特の考え方だそうですが、研究者によって「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」の意味合いが微妙に違っていて、いまも結論的な定義はないのだとか。逆に言うと誰もが自由に考えていいということ。
そこで「ハレとケ」を私なりにメディア論視点で考えてみますと・・・

基本として、ハレは非日常でケは日常、ハレは儀礼や祭でケは普段の生活・・・これは一般論。ハレがないとケがだんだん枯れていくそうで、それがケガレ・・・という説があります。なるほど。

西洋文化の「聖と俗」と似たものという人もいるようですが、聖と俗の場合は「性質」なのに対して、ハレとケは「時間」でしょう。要するに個々の人生にも、コミュニティにも、ハレの時間とケの時間があるということ。

また、ハレ姿などというように、ハレは「状態」でもありますよね。例えば、仮面ヒーローが変身した状態がハレといいますか・・・・。

面白いのは、概念ではなく本当に変身するところ。ハレとケでは、衣装や道具も言葉遣いも所作も食事も、何もかもが異なるのが本来のハレだそうです。柳田國男は、近代化した彼の時代では昔に比べて特別な日だけの特別なものを使うことが少なくなったと論じたところから、この「ハレとケ」の概念がフィーチャーされたのだとか。

もう一つ、ハレの重要なファクターは「神」でしょう
神といっても日本の神は八百万の神であり、先祖代々子々孫々(自分の家系のみならず)を想う心です。そんな「神に見守られる時間」「神とともにある時間」がハレで、「自分のこと」「いまの利益」を想う時間がケです。

「ハレの時間」に日常的に接している人とは誰か

普通は「ハレ」はめったにない「特別な時間」です。
例えば、結婚式や、成人式、卒業式などのいわゆる「式典」がハレの時間。

式典以外にも、心新たに決意してスタートするときは「ハレの門出」。みんなに期待され、憧憬や感謝や称賛を集める時間は「ハレの舞台」。
また、個人の時間だけではなく、地域中がハレの日になる「祭礼日」や、日本中がハレの日になる「祝日」もありますよね。

日常的に「ハレ」の時間にいる人もいます。代表的なのは神社の神官。
神に仕える身は毎日がハレ。ハレの中にも、最重要なハレと普通のハレがあるという感じでしょうか。

また神官以外にも、生の大舞台に頻繁に立つ人も、「ハレ」=「特別な時間」を日常的に体感しているといえるでしょう。
舞台の本番、テレビやラジオの生放送の本番・・・。経験したことがある人なら理屈抜きに知っているでしょうが、「本番」は独特な時間です。リハーサルとはまったく違うアドレナリンが出て、心地よい緊張感と集中力で頭がクリアになり、ふだんとは違う力が発揮されます。大きな大会に臨むスポーツ選手も同じでしょう。

映画やドラマの収録現場の本番も似た部分はあるでしょうが、生放送や生の舞台のようなライブ感はありません。やはり「ハレ」はライブ本番でしょう。

この、アドレナリンと緊張感と集中力とで頭がクリアになるライブ本番独特の感じは、「ハレ」という感覚に近いのではないでしょうか。ハレ渡る覚醒感。

ただし、「自分のこと」「いまの利益」ばかり思って立つ舞台は生本番でもハレ舞台とはいえません。そこはケの場であり、単に職業でそこにいる人。

ハレの時間を過ごしている人を見ると、見る方も晴れやかな気分になります。憧憬、敬意、称賛の気持ちが湧きあがり、たとえすごく身近な人であっても、ハレの日の輝きによって、すぐそばにいても遠い存在のような気がする・・・そんなことを感じたことはありませんか?

肉体を超越する時間が「ハレ」、肉体が生きる世界が「ケ」

さぁだんだん私が言いたいことが分かってきたことでしょう。

言わば、ハレとは生身の体を超越した存在になる時間。
そして、「イベントやメディアの生本番」はハレの感覚を得やすい時間です。

昔ならそんな「本番」は普通の人にはめったに縁がなかったのですが、2020年の世界同時コロナ禍で、オンラインライブという新たな「本番」を、どこからでも自由にできる時代が始まったというわけです。

もちろん、単なるオンライン会議では「ハレ」になりません。
その時間を他の時間と明らかに違うものにする「魔法」を施す必要があります。

まずコンセプトを整え、次に、舞台性、衣装、装飾、言葉づかいといったものを特別なものにする。そしてその時間、利己ではなく利他や未来を想うことで、「ハレの舞台」となり、その時間をともにする人に影響を与えていくんですね。

もちろん、そこまで特別なものにせず、「ケ」のままでも悪いわけではありません。「ケ」は自分そのものですからより重要です。
ただ、オンラインというメディアを通じたコミュニケーションは、生身の体とは異なる【打ち手】が増えますので、そういう意味では「ハレ化」しやすい・・・言い換えると「メディア化」しやすいので、そこを意識してはどうでしょうと申し上げたいわけです。
なぜなら、あなたが立つ場がハレの舞台となり、あなたがハレの存在となったなら、あなたのメッセージはより多くの人の心を揺らすでしょうから。

一方で、ケは肉体そのものです。常に誰かの命を頂かないと生きられない、汚物を排出し、ウィルスを媒介する・・・そんな生身の体と共にある時間。こう書くとなんだかおどろおどろしいですが、それが我々の愛すべき日常です。
どんな美しい女優にもアイドルにもあるケの時間。決して悪いものではなく、その時間あっての自分です。

2つの世界で生きる自分を客観視し、どちらも大事にし、それぞれを成長させることを意識すること

これまでは、多くの人は生身で他者と向き合う以外にありませんでした。対面して話をし、握手をし、ハグしあえるのはとても豊かなコミュニケーションです。ただしそれができるのはとても限られた範囲ですし、また「ケ」の時間ですから良くも悪くも「ハレ」の特別感はありません。

今後は、かなりの数の人が、オンラインメディアを通じた「ハレ」の場を作ってくるでしょう。玉石混交でしょうが、中にはどんどん強い光を発する人も出てきます。全員ではないですが、そういう場を持つ人が増えるのは確かです。これは時代の流れなので、子どもたちが大人になる頃にはますますそういうことが進みます。

よく「本当の自分」なんて言う人がいますが、ハレの時間の自分とケの時間の自分・・・どちらが本当の自分でしょうか? 答えは「どちらも」です。
これまではハレの時間はごくわずかで、気にするまでもなく「ケの自分」と付き合うだけで良かったのですが、今後急速にハレの時間が増えるとどうなるのか・・・。

誰もがハレの時間をたくさん持てることは個々の人生を豊かにし、ひいては世界が豊かになることでしょう。しかし、ケの時間の大切さはハレとは別のものだということをハッキリ意識しておく必要がありそうです。

ハレの時間が急に過度に増えたり、周囲の人の理解を得ないまま自分だけハレの世界に入るのは、ケの世界を枯らしケガレます。家族やリアルな付き合いのある人とギクシャクしてはうまく行かないので、周囲の人とのコミュニケーションはより濃くして応援して貰う必要があります。できるなら巻き込むのが一番です。

また「ハレの自分」のフォロワーが期待する像に心が押しつぶされたり、パブリックな存在と化した自分への「評価」に傷ついたりすることもあるでしょう。
そのあたりは十分想定する必要がありますし、ハレからケにいつでもスイッチできるように、ハレとケの世界をごちゃまぜにしないことも大事なのではないかと言う気がします。

昔なら普通の人にはあまり縁が無かった生本番というハレ舞台を自由自在に扱い、また生身の体のあるケの時間にも誠意をもって向き合う・・・2つの世界で生きる自分を客観視し、2つの世界の違いを理解した上でそれぞれを成長させることが、今後のポイントになるのかもしれません。

ややこしい時代〜!と嘆く声も聴こえてきそうですが、この変化は元には戻らないことでしょう。せっかくなら楽しもうではありませんか。

2021年があなたにとって良い年になりますように。