トミタブログ

「思いやり」と「おもてなし」と「空気を読む」の違い。他人を気にする日本人の特性を活かしたいものです(自戒込め)

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思いやり

2019年11月、「幸福学」を研究で著名な慶応大学の前野隆司教授が、SDGsのシンポジウムで講演されるというので聴きに行きました。

「幸福」と「SDGs」との深い関係について僕なりにいろいろ気づきがありましたが、その件はまた改めて。今日はその講演で前野先生が何気なく話したお母様の発言について考えてみました。

 

「最近、“思いやり”って言葉は死語になったみたい」と前野先生のお母さんはいった

前野先生の講演の、どの文脈でその話が出たのかは忘れましたが、幸福の4因子の説明の際の雑談的な話として「最近、“思いやり”って言葉は死語になったみたいだね」とお母様がおっしゃったというような発言がありました。

その話題はくわしく説明されることもなく過ぎ去って行きましたが、僕の中では「思いやり」は確かにあまり聴かなくなった一方で、「おもてなし」の方はバズワードだなぁという考えがよぎり、その違いについて改めて思い巡らしてみたわけです。

 

東京オリンピック招致のスピーチで滝川クリステルさんが指で一語一語つまむようにアピールした「お・も・て・な・し」以来、「おもてなし」はインバウンド対策や地方創生とセットになって語られることが激増しました。

日本人らしさ、日本的サービスの本質、日本のUSP・・・

しかし、マーケティング戦略の一貫として語られる「おもてなし」には、なんとなく違和感がありました。

 

SDGsの最大のキー「S:社会」を良くするのに最も必要なこととは?

今年9月に、日本ママ起業家大学のSDGs考として、「ママ大 未来ビジョン2019」を発表しました。

その中でSDGsを実行する3つのキーESGの中で、法人組織にとって「E:環境」と「G:ガバナンス」はルールと目標が明確なために合理思考で取り組みやすいこと、一方で合理思考だけでは解決できない「S:社会」の問題は取組みにくい課題であることを書きました。

「社会」とは、誤解を恐れずにバッサリ言い切ってしまうと「地域」の「人間関係」のことです。個人、家族、地域、つまり「地域社会」こそが「社会」です。(社会の定義を話しだすと長くなるので割愛)

社会を「良く」するといっても、ベクトルはひとつではありません。最低限の貧困や保険の問題をクリアしたら「より良い社会」の像は人によって違います。そこに、何々率や何々指数の向上などを指標に考えようとしても無理があります。

前野先生の話を聴くとよく分かりますが、社会を良くするキーは「幸せ感」にあります。

では、地域社会で「幸せ感」を高めるのに最も必要なことは何か? それこそ先生のお母様が言われた「思いやり」なのではないでしょうか。

「思いやり」つまり相手のことを考え、気持ちを想像し、心配し、良くなるようにと願う気持ちや行動。それは元々日本人の多くが子供の頃からしつけられ、大切なことだと育まれてきた感覚ですが、余裕がなくなった現代ではそれが希薄になっているわけです、自分も含めてね。反省しよう・・・。

 

思いやり なき おもてなし は、見返り発想 ”quid pro quo|クイドプロクオ” に似たり

バズワードとなった「おもてなし」には、どこかトランプ大統領的な「したことに対する対価」を意識しているところが感じられるのは気のせいでしょうか?

それが上手にできる人や街が、そういうことを好む人を集めてより経済益を集めていく…なんてことにドライブがかかりだすと、その根本にあるはずだった「思いやり」は人がいちいち考えていると非効率だからAIがビッグデータから導き出す方向に行くでしょう。

しかし、そもそも「おもてなし」とはなんだったのか? そこに思いやりがないのであれば、マーケティング上のテクニックでしょうし、その繰り返しが社会をどんどんギスギスさせて幸福度を下げていく気がします。

 

「思いやり」を難しく考えるとはありません。行動としては、単純に「人として声をかけること」ではないでしょうか。

まずは挨拶から。次に何か相手のことを思いやった雑談。相手の名前を認知し、状況を認知し、心配してるよ…と誰かが思ってくれていることが伝わる。

そういったことを機械がするほど社会の幸せ度は下がり、社会は問題を大きくしていきます。AIやロボットが高度に発展していく時代にこそ、「思いやり」部分は機械ではなく人間がしたほうが、一見非効率そうに見えて実は社会の幸福度を上げて持続可能な社会発展につながる道なのではないかと思ったわけです。

 

日本人の他人を気にする特性は、「空気を読む」より「思いやり」が流行語になったときに活きるんだろな

「空気を読む」という言葉、僕は好きではありませんが、相手をよく観察して他人の気持ちを読んで行動するという点では「思いやり」とよく似ているなとも思います。

その違いは、他人の気持ちを読んだ後の行動が、自分の保身に向いているか相手の幸せに向いているかでしょう。

本来日本の教育やしつけで、「人の気持ちをよく考えなさい」というときは、相手の幸せに向いていたはずです。それが昨今は、みんなに余裕がないので保身のための行動として認識することが非常に増えた。「もっと空気を読め」や「あいつは空気が読めないヤツだ」は出る杭として打たれないためのノウハウだと考えている人がほとんどでしょう。

まず他人の気持ちを読むという行動は、日本人の多くが文化・伝統として長く培ってきた「特性」でしょう。欧米やラテン諸国の文化とはだいぶ違いますし、中国や韓国の文化とも異なっていて、研究者から一般の人までみんな感じていることです。

その特性は、せっかくなら「思いやり」の方に向けたいものです。「空気を読む」ではなく、もしも「思いやり」が日本で流行語になったらこの国の幸福度はかなり上がるような気がします。ただし、思いやられる方がそれを強要しようとすると「甘え」や「弱さ」にどんどんハマりそうな気もします。

思いやられる方はあくまで自立を思考し、思いやる方はなんの見返りも求めず思いやることができたらすごく良いのでしょうが・・・・なかなかね〜。

 

ちなみに、僕の場合は他人の気持ちをしっかり考えることからです。一般の日本人に備わる感覚を学びつつ、自分らしさは活かしつつ・・・いやいや、日々是修行ですな。