将棋でも囲碁でも、天才や名人たちが次々とAI・人工知能に敗戦しています。

でもそんなことがニュースになるのは今だけで、すぐに話題にもならなくなるでしょう。だって、オリンピックにクルマや飛行機が参加してるようなものだから。5年後にはきっとそれがニュースになっていたことに子供たちは驚くことでしょう。

さて、年度末はだいたいスケジュールが滅茶苦茶になるんですが、今年は特にひどく、一緒に仕事した皆さまには、お待たせしたり期限を延ばしてもらったり、機嫌が悪くなったりして(笑)ご迷惑をおかけしました。ブログも正月以来更新しておりませぬので、AIのニュースで気になったこと、新年度はじめに一筆したためます。

 

AI棋士は「大局観」が強い?いやいや対局データの蓄積が違いすぎなのです

少し前のニュースで、アルファ碁(Google傘下の英ベンチャーが開発した人工知能)は「大局観」が強いという話しを読んで「へ〜」と思いました。

「大局観」って経営者の資質とか、僕なんかも企画のコツとして「俯瞰の技術」というときに別の言い方をすれば「大局観」とかって使ってきた言葉ですが、「これって囲碁の世界から来た言葉だったのね、ふーん」と関心を持ったわけです。

で、改めて「大局観」とは何かというと、全体をぱっと見て今どこが大事かを見極める力のことなんですね。これがアルファ碁は強いんだと記事には書いてある。

一方で人間のプロ棋士は、何手先まで読むというシミュレーション力がすごいとこれまでは言われていて、それは将棋も碁もそうでした。そしてコンピュータはもちろんシミュレーション力では負けないので、最初はそっちの方向で開発がされていたんだけど、どうもそれでは人間になかなか適わなかったらしいんですが、それが「大局観」発想・・・つまり先の手を読むというよりも盤面全体見てぱっと判断させる方向に開発を変えたらしいんです。

でも、そんなことコンピュータがするか?と僕は疑問に思ったけど、先を読むと実はこういうことらしい。

◎アルファ碁は、人間には「悪手」に思える意外な一手を初期に打ってくることが多く、そこから多くのプロ棋士が敗北に追い込まれる

◎アルファ碁は、人間ではとても一生で体験できないほどの「対局」をシミュレーションしている

◎しかもその対局数は今も増え続けている

◎対局の初期に「悪手」と思われる手を打つシミュレーションも当然たくさんしていて、いまどこに打つと何パーセントの確率で勝利するかが瞬時に分かり、コンマ2桁のわずかな差でも確率が良い方にかけてくる

ふむふむ。それなら分かる。いかにもコンピュータがやりそうなことだ。

でもさ、それって「大局観」というより、「対局数」の蓄積値が異常に大きいだけだよね?

 

今後、ひとの「経験値」の価値は下がり、「ベテラン」はファンタジーに、「キャリア」はノスタルジーになる

こんなことをいうと、お年寄りや先輩に非常に怒られそうですが、このアルファ碁のニュースを見て僕が思ったのは「経験値」ってヤツはコンピュータに取って代わられるということです。

「この道何年のベテラン」というひとの経験は、残念ながらファンクショナルにはAIに適わないことになっていくでしょう。

もちろん、尊敬には値するし、本人が満足していればいいのだから、その点では価値は下がりませんが、世の中が求める価値としては意味が変わってくると思わざるをえません。

手洗いで洗濯するのやほうきで掃除するのがものすごく上手だった主婦や、駅の改札で誰より正確にきっぷを切りながら期限切れ定期を見逃さない駅員のもの凄さは、今も本当に尊敬に値するとは思うけど、子供たちに割と最近までそんな人が日本中にいたんだと言っても彼らの頭では「魔法使い」や「サンタクロース」と同じ一種のファンタジーに思えるでしょうね。

 

昨今は「働き方なんとか」という話題が盛んで、ときどき僕にもコメントを求める人がいたりしますが、「ワークライフバランス」は近々死語になってしまうだろうし、「キャリア」という言葉も相当価値が下がって行くでしょう・・・というと、1年前くらいだと「は?」という反応が多かったわけです。

しかし、2017年の新年度を迎える今頃になってみると、だいぶこの話も見てきた気がしませんか?

 

「キャリア」とはつまり人が仕事で積み上げてきた「経験」です。

分かりやすく社歴・職歴で示しているものの、本質的にはそういう社歴・職歴を積んで来た人なら多くの「経験値」があるだろうと思われ、それが価値として認められてきたというのが、「キャリア」というものの中身でしょう。

しかし、いまその「経験値」の価値が下がりつつあるわけです。それをAIと競争してもかなう訳ありませんから。

「人の経験値はそんな単純なものではない」と思われるかもしれません。別に僕もそれは否定しないし、そんなの当然と思うのですが、こと「ひとつのベクトルに向かう目的の達成」のためのツールとしての経験値だとしたら、AIにかなわないことはアルファ碁がはっきり示してくれているということを言いたいだけです。

「“キャリア形成”が大事・・・なんて言ってた時代があったよね〜」という日が、さほど遠くないところに来ていると思っていいでしょう。<「キャリア」で仕事できた頃>はノスタルジーになるのです。

それでも、人が判断を下しているうちは、その「ファンタジー」や「ノスタルジー」の価値を取るかもしれませんが、その「判断」自体をAIがし始めますから、その時にはもう情に訴えようがありません。

過去の栄光にすがった生き方は、どんどんできなくなるでしょう。ではどうしたらいいのか?

 

「蓄積(STOCK)」の時代が終わり、「生(LIVE)」の時代へ

科学は人が人らしいことに専念できるように、どんどん発展しているのだと僕は思います。もちろんAIの発展も機械の進展もウェルカムです。

その先の時代に人に期待される能力は、新しい価値を生み続けることなのではないでしょうか。

 

情報流通メディアの主役がマスからインターネットへと変わり、テクノロジーが進化したことで、「蓄積(STOCK)」の価値はどんどん下がり、「生(LIVE)」の価値が上がり続けています。

最初は、音楽や映画、辞典などのソフトウェアがCDやビデオ、本などの物体から情報そのものに価値が移り、部屋の空間を占めていたコレクションがその必要性を失っていきました。

それが今では、部屋だってシェア、クルマだって洋服だってシェア、必要な時に必要なだけ使えればそれでいいというサービスが花盛りです。つまり物質さえも蓄積の意味がなくなっていっています。

 

「貯める」「増やす」=「幸せ」・・・みたいなコンセプトが、もうすっかり古くなっていることを認識せざるを得ません。

 

そう、ますますAIと機械が発展していく世の中で、「蓄積」はコンピュータに任せて、人間は「生」で勝負をする時代になるでしょう。何しろ「生き物」なのですから。

 

いつも言ってる話ですが、「生きる」というのは、一瞬たりとも同じであることはありません。細胞はこの瞬間も死に続け、それを上回る細胞が生まれ続けている間が「成長期」で、生まれ続ける細胞が死に続ける細胞よりも少なくなると「老いて」行き、それが限界値に達すると「死亡」するというのが「生」であって、川の流れのような「無常」こそが生の本質でしょう。

人はその点でコンピュータに負けないし、死ぬまで楽しく毎日生き続ければいいだけです。

 

ただ、これまでの価値観からすると、多少発想を変えねばならないことでしょう。

なんというか・・・ある程度ストックを貯めて後は楽に…みたいな考え方がこれまでは主流ですが、そこからすっかり頭を切替える必要があるのです。

「財産」がその最たるものでしょうし、「学歴」「社歴」「キャリア」「地位」「名誉」・・・いろいろありますよね。そういうものに頼らず、いつでもゼロから、ちっぽけでも何か新しい価値を生み出せるという…そういう力がもっとも重要なのではないかと思います。
といったって、それほど大げさなことではありません。

ちょっとした面白い話で周りの人を笑わせられるとか、手を動かして何か素敵なものが作れるとか、誰かを助けてあげられるだとか、何かそんな風なこと。そういうのが「生」って感じじゃないのかと思います。

一生懸命やっている人を傷つけたらごめんなさいですが、「お受験」に使ってる時間とお金は世界でも旅してきた方がいいし、「資格」取るくらいなら一流のモノや素敵な時間を体感して楽しんだ方がいいと思いますよ。

 

日本文化の価値観を世界の人々はもっと知りたくなる

そんな時代の変化の中で、これから世界はもっと日本文化に注目するようになると僕は考えています。話しが変わるようですが、実は繋がっています。日本文化は「生」の文化だからです。

 

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・」とか

「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・・」とか

<無常観>は日本人の価値観の根底にある感じ方であり考え方です。

変わらぬものは無いし、しかし変わり続けているからこそ変わらないという生の本質。

 

日本の神社の頂点である伊勢神宮は、20年に一度すっかり新しくなる式年遷宮という仕組みによって、1300年も変わり続けて変わらないのが実に日本的で、こういう価値観は西洋人の感覚とはかなり違っていて、実際「世界遺産」ではありません(神宮が望まないからという理由の方が大きいみたいですが)。

 

西洋も中国もエジプトなど中東も、日本に比べてずっと「ストック」志向の文化だと言えるでしょう。お酒も建物もエネルギーも、長く寝かせて価値を上げていく。「三匹の子豚」ではレンガの家を建てる子が良いとされるし、「蟻とキリギリス」では蟻がエライ。

「蓄財」は昔からの価値観に違いありませんが、いま西洋人が中心となって進めた科学の発展によって時代が大きく変わりつつある・・・。これが今の時代の面白いところです。

 

シェアハウスに暮らして、エディブルガーデンを共有するご近所と時々エンターテインメントのDIY→自分たちでコンサートをして互いに楽しむコミュニティ社会・・・って「わくわくする未来」と今日もラジオで言っていたけど、それ落語に出てくる長屋じゃない!?笑

ちょっと長くなったので、「日本文化」の話しはまた改めて書くことにします。